どうも
減点パパと申します。
私自身、
不登校の子を持ったことがあり、
その経験を生かして
お話しさせていただいています。
今日は、
不登校 自己肯定感 息子が「ウンコになった気持ちがわかる」と言った日
というタイトルで
お話しさせてください。
このカタカナ3文字に
自分自身を置き換えて言った、わが息子。
この記事を読んでいただければ
不登校になったことで
なぜ子供の自己肯定感が下がってしまうのか
自己肯定感が下がったことにより
どんな困ったことが起きてくるのかが
わかっていただけると思います。
そして、
下がってしまった自己肯定感を
どうやったら高めていくことが出来るのか
私の実体験を通して
紹介させてください。
冒頭から、下品なタイトルをお見せして、
大変申し訳ありません。
しかしながら、
私の息子が抱いていた
当時の(不登校になって約60日目くらいのころです)
息子自身への
「自己肯定感」
それが
どれほど低くなっていたのか
それを分かっていただくための言葉として
あえて使いました。
小4の2月に
わが子は不登校になりました。
それからというもの
わが家にはいろいろな変化がありました。
不登校の息子本人の
入浴の頻度が極端に減ったこと
息子の部屋が散らかりほうだいになったこと
弟に対する暴力的なふるまい、
自虐的な行為(自傷行為もあったようです)
家族への暴言、
テーブルの上のものをひっくり返してあばれたりと
結構
大変な状態だったんです。
「家のなかが、殺伐としていた」
そんな言葉が当てはまります。
息子が暴れたときに、
「もうやめてっ!、
家のなかが、おかしくなっちゃう」
妻がそのように言った時があります。
「おかしくなればいいじゃん!!」
息子は、
そう言い返しました。
息子の
そういった行動は
不登校以前から溜まっていた不満を
吐き出していたのかもしれませんし、
学校に行かない分、
持て余した体力がそちらに回ったのかもしれません。
そんなある日
息子が弟に対し、
「俺はな、
自分がウンコになった気持ちがわかるから言ってるんだ」
そのように
怒鳴った時があったんです。
その直前に、
弟と、
ゲームかなにかのことでトラブルになり、
その延長から出た言葉でした。
弟とのトラブルに端を発したことではあったのですが
息子は弟に対し、
「俺のようになるなよ」
というようなニュアンスで
言っているように私には聞こえました。
「俺は、
(ウンコのように)
最低で最悪なドン底まで落ちた経験がある」
「だからこそ、お前(弟)に言っているんだぞ」
そのような意味を含んだ
言葉であったという、当時の印象があります。
わが息子が、
汚物である、
そのカタカナ3文字に自分自身を置き換え、
息子自身を最大限に
「卑下」した言葉を放ったわけです。
その時私は、
わが息子の
「自己肯定感」が
とても下がっていることに気付きました。
わが息子は、
「自分で自分を認めることができていない」
「自分の存在を否定している」
「このままでは、
息子が自分自身を責めて
大変なことになってしまうのではないか」
そんな印象を受け、
危機感をも覚えたのです。
そのとき、私は
「これは、
再登校なんかよりも、
まず自己肯定感を高めてやる方が先だ」
強く、それを感じました。
自己肯定感とは
わが息子の自己肯定感を
何とか高めてやりたい
そう思った私は
そもそも自己肯定感とは何だろうと
必死になって調べつくしました。
自分の存在に価値を感じる意識や感情
自分が存在していることに対し、価値を感じることができる
意識だったり、
感情だと言えます。
自己肯定感が高い
自己肯定感が高い状態とは、
自分で自分の良さを
「認めることができている状態」です。
自分のことだけではなく
自分以外の人も尊重しながら、
「俺ってサイコー」
そのように自分に言える状態です。
自己肯定感が低い
自己肯定感が低い状態とは、
高い状態とは正反対で
「自分で自分を認めることができていない」
状態です。
「俺なんかダメだ、俺なんかいたってしょうがない」
そのように自分の存在を、自ら否定している状態です。
他人を尊重できずに
他人に対して
攻撃的な精神状態になってしまいます。
わが息子も
当時は自己肯定感が下がりまくっている状態で
言動や行動も荒々しくなっていました。
心の成長の土台である
自己肯定感が高いといいますか、
低くはない状態であり、
普通に自分を肯定できている状態ならば
しつけであったり、
世の中のルールだったりを教えて
それを積み上げていくことができます。
しかし、
自己肯定感が低い場合、
自分を肯定できていないという
いわばマイナスの状態であり、
良かれと思っての躾が、
本人への負のメッセージにもなりかねません。
自己肯定感は、
心の成長の土台となるものです。
私も、
わが息子の自己肯定感が低かった時、
本当は言いたかったのですが
しつけ的なものには目をつぶりました。
「今、それを言ったとしても、
しつけには結びつかないな」
そのように考えて
言うのを控えていました。
日本の子供は自己肯定感が低い
自己肯定感とはなにかを調べていたら、
日本の子供と外国の子供の
自己肯定感を比較した記事に目が留まりました。
「自分自身への満足度」
日本の子供は自己肯定感が低い
という調査結果があるそうです。
「自分自身への満足度」が、
他国と比べて
3分の1以下しかないのだそうです。
なぜだろうと私は考えてみました。
その理由は、
次の自己肯定感に変化を与える要素が関係しているようです。
自己肯定感に変化を与える要素
他国の子供は、
長所だったり、挑戦心や主張性などの、
自分の内側にある要素と自己肯定感が関連しているそうです。
対して、日本の子供は
人の役に立ったり、
人から感謝されたり、
人から認められたりと
他人からの評価が自己肯定感に関連しているそうです。
日本の子供の場合、
人の役に立ったり、人から感謝されたりと
そういう場面でも自己肯定感を感じることは
もちろんあると思います。
ただ、
「他人からの評価」
という点で、一番身近に感じられることは
学校での成績ではないでしょうか。
学歴社会ともいえる日本においては
成績が良いことは、スゴくて評価されるべきことという
「空気感」とでもいうようなものがあり、
成績が良い=自己肯定感を持って良い
成績が良くない=自己肯定感を持つべきでない
そのように
子供たちが連想してしまうように思います。
なぜ、不登校になると自己肯定感が低下するのか
不登校の子は、
登校している子と比較すると少数派なわけです。
なおかつ、
目に見えるかたちで、登校していないわけですから
登校している子と自分を比べてしまい、
劣等感を持ってしまいます。
その劣等感が、
自己肯定感を低下させてしまいます。
わが子の場合です。
不登校になって、
担任の先生が家庭訪問に来てくださいました。
先生は
学校で配られたプリントなどを持ってきてくださいました。
私や妻としては、
学校につなげたいという気持ちがありますし、
先生も
出来れば、息子の顔を見て、様子を知りたいわけです。
「先生がきたよ」
と自分の部屋にいる息子に声をかけるのですが、
反応もありませんでしたし、部屋から出てくることは
ありませんでした。
(これって、「不登校あるある」じゃないでしょうか)
私は何も考えずに、
いや、無意識のうちに考えていたと思います。
「学校のことを忘れないでほしい」
そんな思いで、
先生が持ってきてくださったプリントやらを
息子の目につくところに置いておくわけです。
プリントだけでなく、
クラスの子供たちからの写真付きの
メッセージや
ある時などは、
下級生の子からの応援メッセージもありました。
「頑張って、**さん」と。
ここからは、後になって気が付いたことを書かせてください。
クラスメイトや下級生からの応援メッセージ。
誰にも悪気はありません。
むしろ、心を込めて書いてくださったものだと思います。
でも、
それを贈られた子の立場で考えてみるとどうでしょう。
「学校に行けていないオレ、
行かなくてはいけないところにいっていない俺」
となってしまいますよね。
「学校に来れていない子はかわいそう、
なんとかして励まさなきゃ」
そのように、
印象付けされてしまっていることに気付いたのです。
登校している子(登校出来ている子)
と
登校していない子(登校できていない子)
という、構図が生まれています。
「登校している子と自分を比べてしまい、
劣等感を持ってしまいます。」
その具体例です。
子供の自己肯定感に影響する要素
どんなかかわり方が影響するか
自分自身への満足度ともいえる
自己肯定感ですが、
どんなかかわり方が
子供の自己肯定感に影響するのか
そんな研究結果があるそうです。
- 一緒に話をしたり、出かけたりする
- 進路についての悩みや、勉強方法へのアドバイス
- 嬉しいときは共に喜び、なにかで落ち込んだ時には励ましあう
このような、
「かかわり方」が自己肯定感に
影響するそうです。
行動を共にし、悩みに寄り添い、
良いときも悪いときも共感する
という事だと思います。
私の息子は
よく、かんしゃくをおこしていたのですが
息子にとっては、
かんしゃくを起こしたくて
おこしているわけではなかったのだと思います。
かんしゃくを起こしてしまうのが
息子にとって悩みだったと思うのです。
それを、息子に問題があるような物言いで
いわば、せめてしまったことを反省しています。
誰が影響するか
- 親(生まれたときから一緒に生活し、影響力がある)
- 友人(思春期を迎えると、友達からの影響がある)
- 先生(特に男子は、先生からの影響があるが、女子はほぼないそうです)
共に過ごす時間が長ければ
影響を受けやすいということでしょうし、
年齢や性別によっても影響の度合いは違うようです。
わが息子の場合、
誰が影響したかと言えば親ですよね。
一緒に生活してきた時間が、一番長いわけですから。
わが息子の場合、
もしも私が、
息子に対して別な接し方をしていたならどうなっていたのか
そういうことを考える時があります。
自己肯定感が低い場合の関係性について
自己肯定感は、親、友人、先生からの影響を受けやすいそうですが、
自己肯定感が低い子供の場合では、その関係性はどうでしょうか。
子供と親の関係
自己肯定感が低い子供と親の関係性は
幼少期からの
「自分の存在を認められていない経験」
が積み重なっているそうです。
一緒に過ごす時間を意識的に増やしたり
悲しみや喜びに共感することで
改善が見込めるのではないでしょうか。
幼いときは、
「すごいね!」
とか
「えらいね!」
とほめただけで子供は喜びます。
しかし、ある程度の年齢になると
それでは逆効果になります。
どの部分がすごいのか、
どんな部分が優れていると思うのか
具体的な部分をあげてほめることが効果的です。
私が実際に息子をほめてやった事例があります。
「最近、
お前は良い気分転換の方法を見つけ出したと思うよ」
「カッとした後に、
自転車に乗って近所を一回りしてくるようになったじゃないか」
「それって、とっても良い方法だと思うよ」
ちょっとしたことで、
怒りの導火線に火がついてしまう息子に
このように言ったことがあるんです。
「そんなことねえし」
息子は、そう言い返しましたが、
「いやいや、いいことだよ」
さらに私が言うと、
怒ってる割には、
まんざらでもないような感じでしたね。
とっさに出た言葉だったのですが、
客観的に良いことだと感じたことは
そのまんま、口に出してほめることが
大事だなって感じた場面でした。
子供と友人の関係
体の成長とともに
思春期が訪れて
友人との関係が変わってきます。
私も記憶がありますが、
思春期の頃になると
親よりも友人との関係が強くなってきますよね。
関係性が、
親から友人へ移行する
とも言えます。
自己肯定感が低い子供の場合、
日々、揺れ動く感情が友人に共感されないと
さらに
自己肯定感が低くなってしまうそうです。
わが息子の場合、
不登校になる前に
授業中に友人と教室を出たことがあったそうです。
インフルエンザが流行っているとき、
先生からマスクの着用をしつこく言われたのに
憤慨したようです。
この後の話は
100%確認が取れた話ではないのですが、
どうも、その友人との間に
マスク事件以降に
「裏切られた」
と思うようなことがあったらしいんです。
マスクの着用を促す先生に不信感を持ち、
その不信感をいわば共有していたはずの
友人に裏切られた
事実関係があっているとすれば
そこから自己肯定感が下がったのかもしれません。
子供と先生の関係
自己肯定感が高いこどもとの比較という前提ですが、
自己肯定感が低い子供の場合、
先生からの共感を受ける場面が少ないそうです。
先生に対して、
子供の方から積極的にかかわっていかないから
ということだと思います。
わが子の場合、
不登校の前は、
先生との関係性は、むしろ良かったと思います。
ただ、マスクの件で
先生に対する見方が変わったのだと思います。
それまでの関係性が良かった分、
その反動が大きかったのかもしれません。
自己肯定感が低い場合に起きること
不登校や引きこもりになる
「自分は認められていない」という経験が積み重なっていくと
その苦痛から自分を守るために、
不登校や引きこもりになるそうです。
わが息子の場合も
かんしゃくに対しての私の対応に不満があり、
自分は認められていないという思いが積み重なったのかもしれません。
自分より弱い人に攻撃的になる傾向
誰かに不満をぶつけたくなるというのは
理解できるように思います。
そして
わが息子の場合も
私よりも妻、
妻よりも弟というように
いわば弱い人にそれは向けられたように思います。
相談機関への警戒心や不信感が強い
私も苦労しましたが、
良かれと思って
相談機関(カウンセリングなど)
を進めるのですが、
息子にしてみれば
「病気にさせられてしまう」
というような気持ちになるんだと思います。
「俺は病気じゃない」
そういう思いなのだと思います。
親にしてみれば、
そういうケースを数多く見てきている人と話をしてみれば
気持ちが和らぐのではないか
そういう思いで勧めるワケなのですが
こころがささくれ立っているような状態では
相談機関に本人を連れていくことは
難しいことだと思います。
自ら進んで相談するような子なら
心配はいらないですよね。
自己肯定感を高めるには
認めてくれる人の存在を実感させる
自分を受け入れてくれる(認めてくれる)人がいる
という感覚を持つことは、
なによりも安心感を生み、
自己肯定感を高めていくための土台だと思います。
わが息子の場合です。
家族一同、
だれも息子に、
学校に行け、行った方がいいとは、一切言いませんでした。
登校しないことを肯定する言葉もかけませんでしたが、
家族みんなが、
息子が不登校なことを否定的に扱わなかったことが
息子の自己肯定感を少しずつ高めていったのだと思います。
自分のいいところを探し出す
ここで言う、
いいところとは
人と比較しての「いいところ」ではなく、
自分がごく自然にできてしまうこと
を見つけることだそうです。
こんなところに
自分の良さがあったのだと気付けることだと思います。
子供だと難しいかもしれませんから、
大人が見つけてやるのがいいのかもしれません。
私の場合です。
息子のいいところを見つけるというところは、
少々出来ていたのかなと思います。
怒りの感情を
自転車に乗って気分転換するという
息子がとった行動を
ほめることができた。
そこに、着目出来て、
言葉をかけられたという点です。
成功体験を積み重ねる
やったらできた。
できるようになった。
そういった成功体験を積み重ねるために
低いハードルのものや、
小さな挑戦を
数多く乗り越えるのがいいと思います。
私の場合です。
家の中に
使わなくなった家電(ラジオとか扇風機とか)がありますよね?
そういうのを息子に与えました。
ねじを外して分解してもらい
粗大ごみに出しやすいように、コンパクトにしてもらったんです。
そのアイデアは、
人からいただいたもので、
私のオリジナルではありません。
男の子って、
そもそも、工具とかに興味があるわけです。
そこで100均やホームセンターで
息子専用の工具(工具箱やドライバーやペンチなど)を買ってきて
与えました。
工具はもともと家にありましたが
わざと息子専用に買ってきました。
「息子専用の工具」ってことにしたわけです。
毎日家にいるので、いわば時間があるわけです。
息子にとっては、いい暇つぶしになったようですねw
やることは、修理じゃなくて
分解(壊す)方向だから、
どうやったら部品がはずれるか?
を考えればいいだけなんです。
そのうち、
じいさんから言われて
使わなくなった、ベットのマットレスも分解していました。
マットレスって
中にスプリングがいっぱい入っていて
そのままの状態だと
粗大ごみとして引き取ってくれないんですよね。
それから、
私と一緒に
物置小屋の棚を作ったりもしました。
パイプを切ったり、
板を電動のこぎりで切ったり。
電動ドライバーでねじを締めて
パイプを固定したり。
そうやっているうちに、
乗り越えた「点」が増えて、
点と点とがつながって
やがて
「線となった」
と感じる場面がありました。
作業が終わる夕方、暗くなってくると
息子が、掃除機で掃除をはじめたり、
もう今日は使わないなと思える工具を
何も言われていないのに
自分から片付けはじめたりと
点どうしがつながって、
線になったことを実感しました。
「成功体験」とはちょっと趣が違うのかもしれませんが、
不用品の分解から始まったことが
「使ったものは片付ける」
というところにつながったということです。
誰かの役に立てることを実感する
自分は、
役に立てたんだという経験。
それが
これからも
役に立っていくんだ
という希望につながります。
「小さな成功体験を数多く積み重ねる。」
この点は、
当時、私の中になぜか、この感覚が備わっていたんです。
身近なことで、
息子が「俺は、やれた」
「やれるようになった」
と思える機会を意識して作ったんです。
地域のお祭りで
準備を手伝ってもらったり、
炭をおこして
焼き鳥を焼かせたりしたんです。
すると、地域の人が声をかけてくれて
「お兄ちゃん、
なかなか上手いね(美味いねもありました)」
って言ってくださったんです。
本人は、はにかんでましたけど、
悪い気はしていなかったと思います。
そんなことで
自分は必要とされ、
役に立っているという感覚が育まれ、
自己肯定感がすこしずつ高まってきたように思います。
ほめるより、喜ぶのが大事
何か(だれか)の役に立って、喜ばれる
何か(だれか)の役に立って、ほめられる
喜ばれる方が
自分が役にたったことを実感できると思います。
不登校になって数か月後、
子供会の行事で、「廃品回収」というのがありました。
地域を回って、
古新聞や空き缶、空きビンなどをもらってきて
それを売って寄付したりするんです。
廃品回収が終わり、その打ち上げと言いますか、
「お楽しみ会」をやったんです。
公園でバーベキューをやったんですね。
息子は、それに参加して
自ら、肉を焼いたんです。
ヤキソバも焼きましたね。
そうして、地域の子供や、父兄に
ふるまったわけです。
みんな喜んで食べていました。
(子供たちや父兄の)役に立った
ということで
本人は、
鼻こそ鳴らしませんでしたが
「どんなもんだいっ」
って感じになっていました。
いろいろな知識・経験を増やす
いろいろなところへ連れ出し、
やったことのないことを
体験させる。
そこから、明るい未来を
イメージさせる
ということだと思います。
息子と私の二人だけのキャンプに連れ出したことがあります。
そこで私が息子に出した課題。
その夜のメニューを完全に息子に任せて
食材の購入の時には、お財布を預けたんです。
そしてキャンプ場でテントを張らせて
炭をおこして肉を焼かせました。
自分で手を動かして
焼いたお肉ですから、さぞかし旨かったのでしょう。
「あっこれうまいわ」
って言ってたのを思い出しました。
翌日の朝、
となりのテントの家族連れが
車のバッテリーが上がっちゃったようで
私に助けを求めてきました。
知識というか、
そのやり方を知っていましたので
私の車にケーブルをつないで
エンジンをかけてあげたんです。
家族連れには感謝されて、
私になにか包みを渡そうとしました。
(たぶん、御礼のお金です)
私は受け取らずに笑顔で遠慮しました。
息子は、その場面を見ていました。
あとで、息子が私に聞きました。
「あの人は、何をお父さんに渡そうとしたの?」
「たぶん、御礼のお金だよ。」
「まあ、立場が逆だったら、お父さんも同じように御礼をするけど
あの人たちのキャンプの思い出が台無しになるから、
受け取らなかったんだよ」
そう、息子に言うと納得していました。
キャンプは、私が息子の自己肯定感を上げるために、
いわば仕組んで企画したのですが、
バッテリーの場面は全くの予想外でした。
とっさのことでしたが、
非日常な場面で
わたしの知識や経験を
見せることができたのかなと思っています。
学歴は、長いスパンで考える
息子が不登校になって
学力の遅れを取り戻せるのか
という心配事がありました。
しかし、
著者が不登校の当事者であった方の本を読むと
いろいろな生き方があることに気付かされます。
本当は、そういった本を息子に読ませて
息子にも気づいてほしい思いはありますが
まだかなっていません。
短いスパンで学力を取り戻そうとしなくても
長いスパンで学歴を作る
という発想も
ありだと思います。
違う世界の人と仲良くなる
考えてみると
学校なんて
とても狭い世界ですよね。
だいたいの子は、生まれた地域で育ち、
地域の子供たちと同じ学校に入り、学ぶ。
中学になれば、
他地域からの顔ぶれも増えますが、
「地域の輪が少し拡大した」
くらいのことです。
そんな狭い世界のなかだけで考えるよりも
もっと違う世界の
いろいろな人たちとふれあい、
仲良くなることは
自己肯定感を上げる以上に
プラスになるのではないでしょうか。
不登校を貴重な体験ととらえる
不登校を貴重な体験
そのようにとらえるのには
抵抗があるかと思います。
しかし、
ある意味、
そのように前向きにとらえるしかないのではないでしょうか。
自分は、どう生きていくのか。
それを深く考える時間であった
そのように
発想を変えてみるのも
自己肯定感を上げていくために必要だと思います。
HSC(ひといちばい敏感な子)の場合
HSC(ひといちばい敏感な子)と呼ばれている子供は、
5人に1人の割合で存在するそうです。
感性が鋭く、
生まれつき繊細であるという特徴を
持っていて、
他の子よりも
喜びや悲しみを強く感じたり、
五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)
が敏感であるそうです。
病気ではなく、
治療の必要もありませんが、
そのような「繊細さ」を持っているがゆえに
「自己肯定感を持ちにくい」
という傾向があるそうです。
HSCの子が、自己肯定感を持ちにくいその理由は
言葉の影響を受けやすい
周囲はそんなつもりがなく
かけた言葉なのですが、
自分を否定されたように受け取ってしまいがちなためです。
失敗を重大なことと受け止めてしまう
自分に厳しいという面があり、
大したことでないことであっても
重大な失敗と思ってしまうためです。
手のかからない子と思われてしまう
HSCの子は、
大人たちの気持ちを敏感に察知できるそうです。
言い換えると、
自分に何を求められているかが
理解できてしまうとも言えます。
その結果、
親や先生から、
いわば、
放置されてしまうことにもなり、
必要な援助が得られなくなります。
集団での行動や生活が苦手
集団行動や生活の場面では、
「皆と同じく行動すること」
が求められますが、
行動が慎重で、うるさいことを嫌う
HSCの子は
急な変化への対応がうまくできなかったり、緊張したりすることで
自己肯定感を持ちにくくなるのだそうです。
HSCの子の自己肯定感をあげるには
親自身も自己肯定感を上げる
子供の自己肯定感を上げて育んでいこうとする場合、
親自身の自己肯定感を上げる努力をすると
子供にも良い影響が出るそうです。
言われてみれば当然ですよね
口角を上げて、
ニコニコしながら子供に接するのと
どよーんとした顔で暗い顔で接するのと
どっちがいいかってことだと思います。
まとめ
自己肯定感というお話をしてきました。
- 自己肯定感とは
- 自己肯定感を高めるには
- HSC(ひといちばい敏感な子)の場合
わが子の場合も
不登校になって、
自己肯定感が極端に下がっていることを
感じた記憶があります
とお話ししました。
今から考えると、
息子の自己肯定感は
不登校になる前から少しずつ
下がってきていたのだろうなと思います。
しかしそれを
私は察知することは出来ませんでした。
わが息子は、
不登校になってから、
登校している子と自分を比較してしまい
一挙に
自己肯定感が下がったのだと思います。
そして、
「学校に行かない、おまえは正しい」
というように
息子の行動を言葉で肯定する、
認める人がいなかったために
孤立してしまい
さらに
自己肯定感が下がっていき
苦しんだのだろうと思います。
下がってしまった、自己肯定感を高めるポイントは
こういうことだと思うんです。
- 親は、学校に行かせようとせずに、行けていない今の状態を肯定してやることが、まず大事。
- それにより、心の安全性を確保する。(家にいていいんだという感覚をもたせる)
- 次に、人との比較ではなく、その子のいいところを見つけ、ほめることでそれを実感させる。
- 次に、小さな成功体験を数多く積み重ねる。
- 私は必要とされていて、役に立っているという感覚が育まれ、自己肯定感が高まってくる。
私の場合、
「(学校に)行けていない、
今の状態を肯定してやること」
という部分は、
明確に言葉で肯定してやれてはいませんでした。
不登校になった初期には、
「ゆっくり休めばいいんだ」
と声をかけたぐらいで、
息子に面と向かって、話し合うことは出来ていませんでした。
なので、
「心の安定性の確保」
の部分でも弱かったと思います。
もし、
あの時に戻れたとして、
今回書かせていただいた内容で対処できていたなら、
違う展開が訪れていたように思うんです。
でも、
前には戻れないので
今からやれることをやるしかありません。
今からやれることを
おっさんはやります。
まだまだおっさんは
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