どうも、
減点パパと申します。
私自身、
不登校の子を
持ったことがあります。
今日は、
その経験をもとにお話しさせてください。
この記事を
読んでいただければ、
不登校についての
考え方が変わります。
「学校に
行かなくてはならない」
その考え方は
偏った考え方である
ということに気付きます。
先日、ネットを見ていたら、
「不登校 偏見」
という
記事が目に入ったんです。
わが息子は
小4の2月から
不登校になりました。
しかし、そのことで、
「(周囲からの)
差別的な扱い」
を受けたことは
なかったように
思うんです。
「ん? 偏見?
そんなのは、
ウチは感じなかったけどな?」
「不登校(に対する)偏見」
という、
「冷たい視線」
と言いますか、
「周囲からの
よそよそしい態度」
とか、
そういうのを
感じたことがなかったので、
記事を読み進めるまでは、
「(不登校に対する偏見)
っていうのは、
ウチには
あてはまらないな」
と思っていたのです。
息子の同級生の
親御さん達は、
息子が不登校に
なってからも、
それ以前と変わらずに
普通に接してくれましたし、
家の近所の人なんかは、
「おらほ(うちの)
孫もそうだっ
(不登校だった)けど、
今は、
ふつうに仕事をしているよ、
何ともねえから、
心配すんな」
と、励ましを
いただきました。
白い目でみられる
というより、
むしろ、
応援してくださる方が
多かったので
わたしが
「不登校(に対する)偏見」
を感じる場面は、
無かったのかなと思います。
わたしには、
息子が不登校になって
しばらくしたときに
心に決めたことがあるんです。
「(息子に対し)
学校に行け、
行ったほうが良い」
そんな言葉は、
「絶対に言わない」
そう決めたんです。
そして、
小学校の校長先生や
担任の先生には
学校での面談の時に
そのように
お話ししました。
「学校に行け、
行ったほうが良い」
その言葉は、
絶対に言わない代わりに
「息子の弱い部分を
育んで、
強くしていくことで、
息子の再登校が
実現すると
考えている」
先生方には、
そのような言葉を足して
お話ししましたので、
理解していただくことが
できました。
わたしの、
不登校になった
わが息子へのかかわり方。
その大前提は、
「再登校できるように
息子を強くしていく」
という事であり、
学校という、
いわば
「レール」に戻すこと。
戻れるように
息子の弱い部分を
高めていくこと。
それが
親としての責任だと
思っていました。
そして、
「その方向性で
間違っていない」
と確信を持ち、
その後も
持ち続けていたのです。
ところが、最近、
目についたその記事の内容は、
私の「大前提」を
根本からひっくり返す
ものだったのです。
私は愕然としたんです。
「えっ!」
「なんだこれ!」
となったわけです。
しかし、
その記事の内容は、
「言われてみれば、
確かに間違っていない」
内容であり、
書いてあることに
全然無理がない内容でした。
そして、
その根拠とされるものも
十分に、
うんうんとうなづけることが
書かれていました。
その記事を
読み進めるまえの時点で
私が受け止めていた、
「不登校(に対する)偏見」
というワードに対するイメージは、
「不登校(に対する)
周囲からの偏見」
いわば、
「(不登校になったことで)
世間から、
白い目で見られる」
ということだったのですが、
その記事に書かれていたのは、
「不登校になった子の親自身が、
不登校に対する
偏見を持っている」
そのような内容だったのです。
そして、
そこに書かれていたのは
私が、
息子が不登校になってから
これまでの5年あまりの間、
「信念」として抱いていた、
「(息子の)どういう部分を育て、
強くしていったなら、
再登校が実現できるか?」
そのように考えて
取り組んできた日々を
「そもそもの根本から
ひっくり返した内容」
だったんです。
「不登校は良くないことで、
改善すべきこと」
というように
不登校を最初から、
「マイナスのイメージ」
で捉え、
再登校に導くことが
親の役目だという
考えを持っていた私。
不登校に対して、
「偏った」
「見方」
で捉えていた私。
「(不登校である)息子に
偏見を持って
接してしまっていたのだ」
ということに気付かされた
内容だったのです。
「オレは今まで、
何をしていたんだ」
「わかっているつもりで、
なーんも分かっていなかったんだ」
自分が息子を導いている
つもりになっていただけで、
実は、
息子を迷わせて
しまっていたのだと
5年も経ってから、
気づいたのです。
頭をバットで殴られたような
衝撃的な内容だったのですが
書いてあることは
発想を転換して考えてみれば
ごく自然に理解できる内容であり、
シンプルでしたが、
非常に説得力のあるものでした。
そこに気付かなかった、
気づけなかった自分が
哀れであり、情けなくて、
恥ずかしくてなりません。
私の信念をも覆した、
その内容について
まずは、お話しさせてください。
「不登校に対する偏見」
「学校に行かなくてはならない」という偏見
9月1日問題
9月1日は、
「子供の自殺が多い日」
と言われているのを
聞いたことが無いでしょうか。
「9月1日問題」
とも言われているそうです。
私は、
テレビのニュースで見た
記憶があります。
夏休みという、
「長く学校に
登校しなくて良い期間」
が終わり、
学校に登校する自分の
姿を思い浮かべることができず、
自らの命を絶ってしまう
児童や生徒が多いと聞きました。
なによりも
最も尊重されるべき「命」。
人数が多い少ないの
問題ではなく、
そこに悩み、
その理由で
尊い命が
絶たれてしまうことは、
絶対に回避しなければ
ならないことです。
「無理に行かなくていい」
という呼びかけは、
メディアを通じて
発信されているようですが、
その呼びかけが
必要なところまで
届いているか、
届いていたとしても、
浸透させることが
できているのか。
人生経験が決定的に少ない、
「子供の目線レベル」
に合わせて、腰を低くし
「有効的に浸透させる方法」
を考えていく
必要があると思います。
「不登校を問題と判断してはならない」
2016年9月、
文部科学省から、
「不登校を問題と
判断してはならない」
という通知が
全学校(小・中学校)
に出されたそうです。
「不登校の子が悪い」
という根強い
「偏見」を払拭し、
学校・家庭・社会が共通して
それを理解し、
受容することが
不登校の児童・生徒
の自己肯定感を
高めるために
重要である。
という内容だそうです。
このような
通知が出される
ということは、
「不登校に対する
考え方が
変わってきている」
と言えますよね。
「不登校の子が悪い」
という考え方は、
「偏見だ」
と言い切っています。
「根本的に
考え方を
変えることによって、
物事の新しい局面を
切り開いていこう」
という、新しい発想であり、
これはまさに、
「コペルニクス的転回」
であるといえます。
ただ、
「不登校を問題と
判断してはならない」
という方針の持つ意味が理解され、
学校・家庭・地域社会に、
広く深く浸透し、
共通理解となるまでには、
まだまだ
時間がかかると思われます。
私の失敗は、
「不登校は良くないことで、
改善すべきこと」という、
「不登校なわが息子に
偏見を持っていた」
ということです。
不登校を
偏見で捉えるのではなく、
学校に行きたくても
いけないわが子の気持ちを
肯定的に受け入れて
やればよかったんです。
家庭の中だけででも、
出来ることをやっていなかった
と言えますね。
ちょっと前まで、
そもそも、
偏見だと思っていなかったのが
私の悔やまれるところです。
「学校は絶対である」という偏見
つぎに、
「学校は絶対」
という考え方についてです。
これは言い換えれば、
「学校には登校
しなければならない」
という考え方です。
「義務教育」といわれると
「学校は登校しなければ
ならないもの」
と考えてしまいますよね。
登校について、
何らかの
悩みを持っている子は、
「登校しなければならないところに、
自分は行けていない。」と、
「狭い視野」
に囚われてしまうことにもなります。
人生経験があるからこそ
「広い視野」をもてる大人です。
そもそも子供自身が
「広い視野に立って考えよう」
と思いつくのには、
ムリがあります。
「学校だけが
すべてじゃない」
という、
不登校を
「否定的に受け止めない」、
そのように
社会全体での空気感が
変化してほしいですよね。
空気感が変わった実例で
分かりやすい実例が
何かないかなと
考えてみました。
「(日本での)喫煙についての
考え方の変容」
はどうでしょう。
ほんの10年前なら、
仕事中の職場内であったり、
みんなが美味しいものを
食べている最中の飲食店であっても
自由に喫煙している場面が
普通に、見られましたよね。
そこに、
小さな子供がいようが、いまいが
ほぼ気にすることもなく
喫煙者の方は、
スパスパとたばこを吸い、
モクモクと煙を上げていました。
それが、現在はどうでしょう。
ほぼ、
そういうことは見られませんよね。
受動喫煙が社会問題化し、
法律で制限されたことも
大きな要因でしょうが、
社会全体として、
「喫煙」に対する、
社会全体の空気感
(受け止め方)が
ガラリと変わりました。
「公共の場所では
喫煙してはならないのだ」
そういう考え方が
社会全体に
浸透したということだと思います。
喫煙が当たり前だった時代が
様変わりしたように、
「学校は絶対である」
という、これまでずっと続いてきた
考え方や風潮自体が
「偏見なのだ」
ということがもっと
世の中に広まり、
「学校だけが
すべてじゃない」
そのような、
不登校に対しての
「寛容な声」
が、あたりまえに聞こえるように
なって欲しいものです。
不登校の考え方に変化
不登校の子供への
イメージとして、
「子供がおかしい」
と先入観で
見られてしまいがちですが、
そもそも、
「子供を取り巻く環境に
問題はないのか?」
そういう視点で考え直そうとする
「変化」が出てきたようです。
「善である」
というのが前提の
学校や先生なのですが、
本当に
「善」であるのか。
学校は、国が作ったものであり、
国が作ったものが、
「悪」
であっては困るので、
「善」
としていないか?
学校の在り方は
今のままで良いのか?
先生の指導方法に
見直すべきことはないのか?
国が作ったものだから、
学校には登校すべきと
いう前提になってはいないか?
いままで、
親たちが疑いもなく
従ってきた学校教育は
本当に正しかったのか。
不登校が増え続ける中、
「これまでの前提」を
考え直してみる。
不登校の考え方に
変化が出てきているようです。
「不登校になった本人や親はダメ」という偏見
不登校になった
児童・生徒さんは、
あるいは、
不登校の子を持った親は
なぜ、ダメという偏見を
持たれやすいのでしょうか。
それは、
「(不登校になったのは)
不幸なことである」
という、
不登校に対する考え方の
「根っこ」の部分が
大きく影響していると思います。
登校している児童・生徒は、
いわば多数であり、
不登校の児童・生徒は
少数なわけです。
不登校になっちゃった
=少数な方になっちゃった
というイメージを持たれてしまい、
「不登校は不幸なこと」
と思ってしまいます。
私も、
そのような負のイメージを持っていました。
世間で言われる、
不登校への考え方です。
・こころの病気なのではないか?
・怠けや甘えや、
我がままによるものだったり、
現実逃避をしているのではないか?
・親の育て方(過保護や愛情不足など)
による結果ではないのか?
・(社会性がなかったり、
自立が出来ていないから)
社会に適合できない子なのではないのか?
「世間で言われる」
というか、
実際、私自身が
このように思っていました。
しかしこれらは、
客観的事実に基づかない、
負のイメージにより
勝手に作られたものです。
不登校になった
本人やその親は、
いわば、
「(登校するという)
レールから外れた」
とみなされ、
「私、レール上の人、
あの子はレールから外れた人」
と印象付けられてしまうのです。
そして、
「レールに戻してあげよう」
という考えに
至ってしまうんです。
私自身、その偏見で、
わが子を印象付けてしまい、
「レールに戻そう」
と一生懸命になっていたわけです。
「私だけが行っていない」と思ってしまう理由
不登校の状態にある児童・生徒が、
「あなたが悪いのではないんだよ」
とか、
「自分は学校に
行けないから
ダメなんだなんて
思わなくていいんだよ」
と不登校であることを
肯定されたとしたら、
自分の今の状態を
肯定できるでしょうか?
おそらく、
どういう言葉を使ったとしても、
今の状態を肯定できず、
「私だけが
学校に行っていない」
という否定的な気持ちに
なってしまうと思うんです。
なぜそう思ってしまうのか?
それには、2つの理由があります。
大多数が登校しているから
そう思ってしまう
1つ目の理由は、
「大多数が登校しているから」
です。
言い換えると、
「不登校が少数だから」
ということです。
日本って、
「多数派のほうが正常で、
少数派が異常だ」
根拠もないのに、
そのように考えてしまう
風潮がありますよね。
平日の昼間に
学校に登校しているのが
正常で、
学校に行かないで
家にいるのが異常。
前者が多数なので
正常にみられ、
少数派の後者は異常に
みられてしまうということです。
しかし、
多数であるか、
少数であるかだけで
正常か、
異常なのかを
決めることは出来ませんよね。
少数であっても、
それが尊重される社会でなければなりませんし、
そうであることで、
みんなが生きやすい
社会になると思います。
「学校へ行くことは大事なことだ」という社会背景
2つ目は、
「学校へ行くことは大事なことだ」
という社会全体の考え方です。
「登校しているのが多数」
という事実は、
「国が決めた
制度に従っているのが多数」
という事にもなります。
よって、
少数である
不登校の児童・生徒は、
「国が決めた制度に従えていない」
という気持ちにも
なってしまいます。
不登校の児童・生徒も
「大人になれば、
自分も働いて生活していくのだ」
と考えているでしょう。
それとおなじで、
「(何もなければ)
自分も登校すべきだ
(登校するのが自然なことだ)」
と考えています。
「(制度に)従えていない」
とまでの
深い思慮があるかは疑問ですが、
「登校するのが自然なことだ」
という思いはありますよね。
「自分は、そこが出来ていない」
そういう考えで、
「私だけが学校に行っていない」
そのように思ってしまいます。
不登校を
べつな言葉で
表わしてみようとしたら、
「学校のことをうまくやれない」
そんな言葉が浮かびました。
日本の社会って
学校のことをうまくやれない人は
「どこか、劣っている」
そのように
捉えがちではないでしょうか。
たとえ話をさせてください。
「俺が、
年商1億の会社社長になったワケ」
そんなタイトルの本があったとします。
このタイトルの先頭に
「不登校5年だった」
と付け加えて、
「不登校5年だった俺が、
年商1億の会社社長になったワケ」
としたら、
本への興味が増しませんか?
「ん?なんだ?」
と関心を持つと思うのです。
「(学校のことをうまくやれなかった)
不登校5年だった俺が・・・」
というように
本のタイトルを見た人は、
長く、
学校のことをうまくやれなかったやつが・・・
そんな風に受け止めて、
興味をそそられるわけです。
なぜでしょう?
日本人には
「学校信仰」
とでもいうような考えがあって、
「学校に通い続けねばならない、
それが普通だ」
的な、考えが昔からありますよね。
前段の、
本のタイトルの例で言いますと、
「5年も学校のことを
うまくやれなかった子が、
年商1億の会社社長になって成功した」
そのようなタイトルが
興味を引くということは、
「学校に通い続けねばならない、
それが普通だ」
といういわば、
「学校信仰が存在している」
という裏付けだと思うんですよ。
そして、学校信仰の延長上に
「学歴を人を見る
判断基準にしている」
という社会背景があります。
同じ会社に入っても
初任給は、
大卒のほうが高卒より高いですよね。
学校であったり、
学歴を基準に人を判断する社会は
見直されていくべきだと思います。
「学校は国が作った制度」
学校というのは、国が作った制度です。
小学校に入学する前の年に、
市(あるいは町や村)から通知が届いて、
「就学時健診」を受けるあたりから
入学の準備が始まります。
入学して6年間を小学校で学び、
卒業したら、
中学校で3年間学ぶことになるわけです。
合計9年間の
義務教育を受けるわけです。
言い換えると、
「受けさせられる」わけです。
(この表現に悪意はありません。)
そして、
義務教育を受ける
(受けさせられる)ために
いろいろな仕組み(物や人や制度など)
が準備されています。
学び舎としての校舎や
教える人材としての先生。
学ぶための道具としての
教科書は無償で支給されます。
昨今は、児童数の減少で、
学校が統廃合した結果、
遠距離を登校する子のための
スクールバスも用意されています。
児童・生徒が、
教育を受けるための仕組みが
準備されているわけです。
いっぽうで
保育園は、数が足りず、
入園したくても、
入園できない子供がいて
「待機児童」と言われていますが、
小・中学校は義務教育なので
入学できないということは
ありませんよね。
児童・生徒は、6歳のころから
学校に行くように
いわば、仕向けられているわけです。
(この表現にも悪意はなく、
わかりやすくするために
使っています)
不登校という状態は、
学校制度に対して、
いわば、
「ちょっと、待ってくれー」
と
まあ、相撲でいえば
「待った!」
をかけている状態
なんだと思います。
実際の相撲では、
「待った」
をかけ続けることは不可能であり、
可及的速やかに
取り組みを
しなければなりません。
実際の不登校の話に戻ります。
待ったをかけて、
そして、
待ったをかけ続けて
いるわけですが、
それによって
本人や親がダメなんだと
思ったりする必要が
あるでしょうか?
学校制度を
最大限生かして、
学習する子もいるでしょうし、
待ったを
かけ続ける子もいるわけです。
制度を利用する子もいれば、
しない子もいるわけです。
もっと言えば、
全くと言っていいほど
利用しない子もいれば、
休みながらも、
断続的に
利用するような子もいるわけです。
国が、学校という場を
提供しているからと言って、
学校だけが、
唯一の学びの方法ではないはずです。
いまどきは、
フリースクールや適応教室
というのもあるそうです。
しかし、それすらも
「行かなくてはならない」
ものではなくて
「行く、行かない」は
その子が決めれば
いいことだと思います。
まとめ
- 「学校に行かなくてはならない」という偏見
- 「不登校を問題と判断してはならない」
- 「不登校になった本人や親はダメ」という偏見
- 「私だけが行っていない」と思ってしまう理由
- 「学校は国が作った制度」
今回、
「不登校
偏見を持っていたのは自分だったと気づいた日」
というタイトルで
お話しさせて頂きました。
「学校に行かなくてはならない」
というのは、
一見、正論に聞こえたり、
感じたりする文章ですが、
「9月1日問題」や
文科省から出された、
「不登校を問題行動としない」
という通達で
「不登校の児童・生徒が悪い
という偏見を払拭する」
という方向に変わってきている
ということを紹介させていただいた中で、
「学校に行かなくてはならない」
というのは、
耳障りはいいが、
正論ではなく
むしろ、偏った見方だ
ということに気づかされました。
私自身が
不登校に対する「偏見」を持って
わが息子に接していたことに
気付かされたという、
ある意味、
お恥ずかしい内容
だったのですが、
これを踏まえて、
わが息子に対する
かかわり方を
改めて考え直すことが
できました。
「根本的に考え方を
変えることによって、
物事の新しい局面を
切り開いていこう」
という、
私にとっての、
コペルニクス的転回
が生まれましたので、
これから軌道修正して
行きたいと思います。
息子が不登校になり、
(「不登校になり」という表現が、
なにか否定的で、適切ではないですね、
「不登校になってくれたので」
がベストかな?)
5年(もうすぐ6年になります)
も経ってから
やっと気づいたわけですが、
今からでも、
軌道修正をして
やるしかありません。
この先、まだまだ
長い道のりになるかも
しれないのですが、
おっさんは、
老体にムチ打って
精一杯、頑張ります!
コメント